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早川徳次
「逆境の人生」
早川徳次は1912年東京の下町に生を受けます。
母親が病弱だったため、2歳の時に養子に出された徳次ですが
新しい家で待っていたのは幸せな生活ではなく、この世の地獄でした。
徳次は、義母から理不尽な虐待を受けて少年時代をすごします。
勉強もさせてもらえず、小学校も2年で中退。
内職で働いたお金はすべて義母にしぼりとられ、食事さえ与えられないこともありました。
この地獄の毎日から解放してくれたのは、近所の目の不自由な老婆でした。
老婆の計らいで冷酷な義母のもとを離れ丁稚奉公に出ることができるのですが
この老婆のやさしさは一生忘れられないと徳次は言っています。
そして後年、徳次は目の不自由な障害者の働ける工場を作りました。
(大企業では他に前例のないような奇抜なことだったようです)
「自分が幸せになったということは、世の中から受けたひとつの借りだ」
早川徳次の言葉ですが、幸せを当たり前だと思ってはいけないという考えは
つらい少年時代の中で徳次が得た大きな糧なのかも知れません。
かざり職の丁稚奉公で金属加工の技術を学んだ、徳次は、
19歳の時、人生で最初の特許を取得します。
そして、22歳の時、有名なシャープペンシルを考案し、日米で特許を取得。
事業も軌道に乗り、結婚し子供もできて、幸せの絶頂にあった30歳の時、
またしても逆境が徳次に襲い掛かります。
それは関東大震災でした。
徳次は妻と子供、工場、すべてを一瞬で失うことになります。
大成功を収めたシャープペンシルの特許も借金返済のため売却することに・・・
関東大震災がなければきっと、シャープは作られてなかったでしょう。
しかし、ここで、徳次が逆境の人生に立ち向かったからこそ
現在のシャープがあるのです。
シャープペンシルの特許を売却した会社に、生産の指導をするために、
徳次は新天地の大阪へ旅立ちます。
そして、この地で、0からスタートすることを心に誓い、
「早川金属工業研究所」を設立。
この給料が出るかどうかもわからない小さな会社ですが、
徳次の人望を慕った、多くの従業員が一緒について来ました。
常に時代の最先端のものを作ることを目標とした徳次は
ラジオ放送の開始にあわせて、庶民にも買えるラジオの開発に成功。
このラジオの爆発的ヒットが、後の世界的家電メーカーへの大きな一歩となりました。 |
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ひとが真似するようなものをつくれ |
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自分が幸せになったということは世の中から受けたひとつの借りだ |
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