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本田宗一郎
「不可能へのチャレンジ」
「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。」
本田宗一郎の言葉ですが
まさに宗一郎の人生はチャレンジの人生でした。それもとてつもない不可能へのチャレンジです。
小学校卒業後、自動車修理工場に入社(丁稚奉公)。
優秀だった宗一郎は6年後、のれんわけを許されます。
30歳のとき念浜松工業高等学校(現静岡大学工学部)機械科に聴講生として入学。
専門知識の大切さを痛感した宗一郎は本格的に勉強をはじめます。
その後、「東海精機重工業株式会社」の社長に就任し自動車部品製造に乗り出します。
宗一郎が現在のホンダのはじまりである本田技研工業(株)を設立したのは
42歳のとき、資本金は100万円でした。
11人の社員でスタートしたホンダのはじめのチャレンジは
世界一のパワーのバイクエンジンを作ってレースに勝つこと。
しかし、その道のりは険しいものでした。
多額の借金と社員の事故死、立ちはだかるヤマハの壁・・・・・・・
数多くの困難を乗り越え、、苦心の研究の結果、世界初のエンジンの開発に成功。
国内のレースで結果を出せるようになってきたホンダは、積極的に世界に打って出ます。
そして、「マン島を征するものは世界のバイク市場を征す」とまで言われていた
世界最高峰のバイクレース、マン島の二輪車世界グランプリで
いきなり1位から5位までを独占したのです。
しかも、スタートからエンジンの違いを見せつけての圧勝でした。
レース後進国日本の小さな会社は一瞬で世界に名を轟かせ、
この活躍でホンダのバイクはアジア諸国を中心に大ヒット。
バイク=ホンダと呼ばれるまでに不動の地位を築きました。
これからの時代はバイクから自動車に移行すると
自動車に目を向けた宗一郎ですが、そこに大きな壁が立ちはだかります。
通産省が外国車の輸入自由化を前に打ち出した
自動車生産メ−カーを限定する特振法の存在です。
トヨタ、日産は許可が下りましたが、このとき一台も自動車を作っていなかったホンダは
相手にされませんでした。
そこで宗一郎はこの大きな壁に立ち向かう決心をします。
通産省を認めさせるには大きなことを成し遂げるしかない。
宗一郎が選んだ道は無謀にもF1への挑戦でした。
しかもバイクの売り上げの大半をつぎ込んだ無謀な挑戦です。
F1−それは地上のあらゆるレースの中で頂点に君臨する
人類のスピード追及への挑戦の最先端の舞台です。
結局、特振法は廃案となり自動車生産の道は開かれますが
F1への挑戦はホンダをさらに飛躍させる結果となります。
なんとF1参戦2年目で優勝してしまったのです。
これは過去に例をみない奇跡的な大快挙です。
「F1は大衆車作りの走る実験室」を宣伝文句にホンダブランドは民衆の支持を受けていきました。
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| チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ |
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| 飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ |
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| 進歩とは反省の厳しさに正比例する |
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我々は勝負師ではない。
負けても何が原因で負けたかを追求することに意義がある。 |
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